明治の天才的な洋画家・青木繁は明治15年(1882)久留米市荘島町の生まれ。同級生の坂本繁二郎とともに九州を代表する画家として有名です。
 明治36年(1903)の東京美術学校(現・東京芸大)時代には、「黄泉比良坂」他の作品が第8回白馬会展の白馬賞を受賞。
 名作「海の幸」に続く「わだつみのいろこの宮」も、文豪・夏目漱石が小説・「それから」の中で称賛するなど、華々しいデビューをしますが、 中央画壇の権威主義を嫌い、父親の死をきっかけに九州に戻ります。そして、そのまま中央画壇には復帰する事もなく、孤独と失意の中で28年間の人生を閉じました。




 
海の幸 明治37年(1904)

海の幸明治37年(1904)
重要文化財
石橋財団・石橋美術館所蔵
 明治37年、友人の画家・坂本繁二郎、森田恒友、恋人の福田たねとの1ヶ月半の千葉県布良海岸滞在中に描かれた青木の代表作です。
 この作品が第9回白馬会展に出品されるや、詩人の蒲原有明をはじめ浪漫派の文学者などが共鳴し、青木は一躍時の人となりました。

 佐賀には明治41年(1908)冬に訪れますが、明善中学校の恩師であった森三美が佐賀中学校に転任したことで、森を訪ねて翌42年7月から43年11月 まで滞在していました。明治43年4月には、当館の支援者でもあった西英太郎(衆議院議員・西肥日報社長)の後援で、当館で画会が開かれました。 この画会の大成功は、貧困と絶望にあえいでいた当時の青木繁にとって、つかの間の幸せだったようです。その後、7月から9月に架けて当館に投宿し、 宿代の代わりに「温泉」他の作品を置いていったとのことですが、現在は残っていません。
 先年の東京芸術大学創立百周年記念の所蔵作品全国巡回展では、その図録の表紙に青木繁の自画像が選ばれるなど、最近、青木芸術への再評価が高まっていますが、 明治時代の西洋一辺倒の洋画壇にあって、青木繁が神話や伝説を題材にして、天才的な感性と想像力、描写力を発揮したことが彼の芸術に普遍的な価値を与えているものと思われます。




 
大穴牟知命
明治38年(1905)


大穴牟知命明治38年(1905)
石橋財団・石橋美術館所蔵
 「古事記」上巻にあるオホナムチノミコト(大穴牟知命・大国主命)の受難の物語を題材としたものです。この絵を見る私達と視線を交わすように描かれたウムギヒメ (向かって右側の女性)の顔の描写が、本作品に生気をそえていると云えます。

−「読む・石橋美術館」(石橋財団石橋美術館・発行)より転載



 
わだつみのいろこの宮
明治40年(1907)
わだつみのいろこの宮 明治40年(1907)
重要文化財
石橋財団・石橋美術館所蔵
 「古事記」上巻の綿津見の宮の物語を題材とした作品です。
 兄の海幸彦からかりた釣り針をなくした山幸彦が、釣り針を探して海底にある「魚鱗(いろこ)の如く造れる」宮殿へとくだり、画面向かって左のトヨタマヒメ (豊玉毘売)とその侍女に出会う場面が書かれています。青木にとって記紀の神話は重要な着想現でした。一方、海底の情景という設定、女性像のプロポーション や着衣、全体の構図などにはイギリス・ヴィクトリア朝の画家エドワード・バーン=ジョーンズからの具体的な影響を指摘する事ができます。日本の古代も20世紀 初頭の西洋も青木にとっては遠きものでした遠きものへの憧憬を表現しようとしたところに青木の絵画世界のロマン的特色があったわけですが、そのような 表現は絵画としては未完成たらざるをえない場合が多いのです。夭折したことも相まって、青木の画業もまた未完成の感が強いが、その中にあって本作品は 油彩画としての高い完成度を示しています。

−「読む・石橋美術館」(石橋財団石橋美術館・発行)より転載